『精神分析という営み』を読む ②


『精神分析という営み』藤山直樹/岩崎学術出版社(2003年)

こころの空間

 「悲しみでこころがいっぱい」という表現があるように、私たちはこころというものをなんらかの広がりをもった空間としてイメージすることが多いように思います。

 不安や心配事があるとき、こころがそういったものに占められてしまったように感じられます。逆に不安や心配事が解消するときは、新しい視点が加わって、こころの空間が広がったような体験をすることもあります。

 ゆとりという言葉は、精神的な余裕を意味するのと同時に、空間にスペースがある時にも使われます。こころにゆとりがあるとき、私たちは様々な角度から物事を検討することができますし、クリエイティブな発想というのもこうしたこころのゆとりがあってこそ生まれてくるものです。

 こころが健やかにはたらくためには、こころがなにかに占められてしまっている状態ではなく、こころの空間にゆとりが必要だといえるでしょう。

治療者のこころの空間

 心理療法にいらっしゃる方の多くは、来談された際にこころのゆとりが失われています。

 クライエントのこころにゆとりがない状況であっても、治療者のこころにゆとりがあることで、心理療法の場にゆとりが生まれます。そして、クライエントのこころの中を占めていた悩み事は、心理療法の場というゆとりのある空間の中におかれることで、これまでとは違った角度からのアプローチが可能になります。

 しかし、前回のコラムで取り上げたように、ときに治療者がこころのゆとりを失ってしまうことがあります。そうなると、心理療法の場にもゆとりが失われ、切迫した出来事が起こったり、行き詰まりの状況が生じたりします。

 この治療の危機から、治療者がこころのゆとりを回復していくプロセスが、『精神分析という営み』では印象的な臨床描写の中でいくつも描かれています。

 それは、面接室の中に置かれたあるもののことが急に気になりだしたり、クライエントの語りからまざまざと視覚的なイメージが生じたりといった治療者の個人的な体験をきっかけに、その場でおこっている出来事がまったく違った観点から見えてくるという体験です。

 これは、見方によっては治療者の独りよがりな思いつきのように見えるかもしれませんし、その可能性は常に考える必要があると思います。

 ただこの本の中では、一見取るに足らないような治療者の体験から、面接場面で生じている出来事にまとまりのある新しい意味づけが生まれていくあり様が、まるでミステリー小説の謎解きのように巧みに描き出されています。

 そして、そこで生まれた理解をクライエントに伝えた際に、これまでとは違った反応が生じ、そこから治療が展開していくことが、著者の主張に説得力を与えています。

 ここで描かれているのは、治療者とクライエントの二者の間で生じている行き詰まりをまったく別の角度から捉える第三の視点が出現しているということです。 

他者との交流がもたらすもの

 ここで重要なことは、第三の視点の出現は、治療者の個人的な体験がきっかけとなってはいるものの、治療者個人から生じたものではないということです。治療者とクライエントというふたりの人が、精神分析という心理療法を営んでいく中で生み出された、治療者のものでもクライエントのものでもないまったく新しいなにかなのです。

 精神分析は、哲学を参照しながら、こうした体験を関主観性という概念で描き出します。個人の主観が他者と重なりあうことで、客観的な認識とは違った「私たちの世界」とでもいうような共通の体験が生み出されるということです。そして、こうした関主観的な体験が生じることが、心理療法の中で人が変化することにつながると考えるのです。

 少し難しい話になってしまったかもしれません。もう少し身近な例で考えてみましょう。

 誰かと一緒にアイデアを出し合うような場面をイメージしてみてください。そこで生まれる一番クリエイティブな考えは、おそらく個人の中から出てくるものというよりは、相手とのやりとりの中で突然降ってわいたようにひらめくものであることが多いのではないかと思います。そして、それはきっと相手が変わると生まれてこなかったものでしょう(相手が変わるとまた違った考えが生み出されるかもしれません)。つまり、その相手と自分との間の交流で生み出されたものという意味合いが強いといえます。

 このように人と人が交流することには、ひとりではなしえない新しい何かを生み出す生産性があります。アーティストのコラボレーション企画などもこうした背景から生まれるものだと思います。

 心理的な悩みという行き詰まりの生じやすい状況にブレークスルーをもたらすのは、こうした他者との交流のもつ生産性であり、そこで生み出される自分のものでも相手のものでもないまったく新しい第三のものが、こころの空間を広げる力をもつのです。

 そして、こうしたこころの空間のひろがりが生まれることが、人に変化をもたらすのだと思います。

おわりに

 一般向けに本を紹介するコラムとしては、少し難しい内容になってしまったかもしれません。

 ただ、このコラムで最初に紹介する本はこの本にしようと決めていました。それは、この本が私の臨床の原点ともいえるもので、折にふれて何度も読み直してきたからです。

 著者の藤山直樹先生は、日本を代表する精神分析家で、私の学生時代からの恩師です。私は今も先生の主宰するケースセミナーに参加しているのですが、そこで先生の自由な発想や発言にふれるたびに、自分のこころの空間がひろがるような不思議な感覚を覚えます。

 先生のようにとはいきませんが、私もかかわる人のこころの空間を広げられるような臨床家になりたいと常日頃思っています。

書籍情報はこちらを参照(ブクログのリンク)

https://booklog.jp/item/1/4753303055


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